Yoshifumi Kondo
作業中の騒音から、耳栓しながら職場仲間のブラジル人とともに歌を歌って過ごす日々を送る。2ヶ月半ほど過ごした後、ただ職場で歌うレパートリーがなくなったという理由で、やめることになる。「えっ!そんな理由?」と思われるかもしれないですが、当時は、歌を歌っていないと続けられないと思うほど「退屈さ」を感じていた。
当時、両親が家業(資源回収業)を営んでいたので、この機会に手伝うことになる。両親が上司で、祖母が経理という構成。仕事は、鉄くずや新聞・ちり紙など回収する業務。しかし毎日、父親とぶつかり喧嘩が絶えない日々に。これでは、まともに仕事にならならいということで、やっぱり外で就職することを決める。もともと「家業を継ぐんだろうな」と子供の頃から勝手に解釈していたのですが、それはもう少し先だと感じた。
いずれ家業を継ぐ日に向けてトラックでもうまくなっておこうと思い、運送屋に就職することに。音楽活動を続けながらトラックの仕事をはじめる。トラックの仕事は一人の時間が長く、考える時間も増えたことで、やがて自分に少しモヤモヤ感がでてくる。
自分の「夢ってなんだろう」について考えるようになる。やっぱり夢を追いかけている人っていいなぁ~と。音楽もいいけど、それ以外になにかリアルな夢が自分にはないのだろうかと。そんな思いにふける日々が続いていたある日、思いもよらない形でそれは訪れた。
深夜に配送先の工場にいったら、なんと焼却炉が大火事になっていたのだった。これは大変だ!
その当時、焼却炉でいつもゴミを燃やしていたおじいちゃんと仲良しだったためすぐに脳裏に浮かぶ。「おじいちゃん、大丈夫か!?」と。焼却炉に近づくと、おじいちゃんが焼却炉付近であたふたしていた。すぐに離れればいいものの、一体なにをやっているんだ!?
と声かけるものの、どうやら焼却炉のすぐ横に止めてあった自転車に近づこうとしていた。ひとまずみんなでバケツリレーして、焼却炉の火をなんとか消すことに成功。すぐさま、おじいちゃんは自転車にかけよって、カゴからあるものを取り出してきた。目的は自転車ではなく、カゴの中だった。それは娘さんからもらったというジャンパーだった。「夜は寒いからこれ着て」ということで娘さんからプレゼントされたものだった。水には濡れていたものの、燃えることなく無事だったのをみて安堵感。
こんちゃん、ありがとな。
こんちゃん、ありがとな。
※こんちゃん:近藤のこと
と涙しながらお礼を言われた時に、これまでにない電撃が走る。
翌日。すぐに岡崎の消防本部にいく。「消防士になりたい!」と告げると、突然の訪問に驚かれながらも、話だけは聞いてもらえた。そこで初めて消防士になるためには、まずは公務員試験に受かることが必要であると知る。帰りに本屋さんへいき教科書をみることに。すると、あることにびっくりする。
てっきり「火」や「煙」のことをたくさん勉強する教科書かと思いこんでいた。でも消防士になることを決意した自分がいたので、トラックに乗りながら勉強する日々がはじまった。消防士という火に関わる仕事だからタバコは吸っていたらダメではないかと思い、その時、タバコもやめた。やがて、独学だけでは難しいと限界を感じるようになり、資格学校の個別面談会にいく。
ただ、その時の格好がまずかった。他の参加者はみなスーツ姿の中、自分だけ赤の革ジャンにびりびりの黒パンツ。「え?この人、本気なの?」という空気になってしまった。
担当者にも「みなさん、それなりの下準備でくるもので、真剣な思いで来るんです。」と告げられる。こちらこそ気持ちの上では本気で真剣だったのですけど、見た目から明らかに場違いな空気を感じてしまった。ただ、どうにも自分の中でおさまりがつかず、悔しくて願書だけは出すことに。
とはいえ。もし学校に通いながら勉強するとなるとトラックの仕事も時間的に難しいのではないかと勘違いし、運送の仕事をやめていきつけのラーメン屋でバイトをすることに。そんな日々を送る中、ある日、資格学校から電話が鳴る。
「申し訳ないのですが、消防士試験は高校卒業後、1年以内しか受験資格ないのです。」と告げられる。すでに卒業から5年は経っていた。
あまりの予想外の展開にボー然とする。ようやく夢ができたというのに、あっさり打ち砕かれてしまった。このどうしようもない現実に、あまりのショックと挫折感で頭が真っ白になる。これから自分はどうしていけばいいんだろう。気がつけば、ずっとやめていたはずのタバコに火をつけていた。ひとまず収入を補おうとラーメン屋に加えて、夜はバーテンダーの仕事をはじめる。色んな人と話がしたい。何か見つかるかもという思いだった。
そんな日常を送っていたある日。ふとひとり旅がしたいと思い立ち、自分探しの旅へいくことを決意。なんとなく日本じゃない気がして、アジアへ。資格学校に通うために貯めていたお金を使って、約1ヶ月半ほど。タイ・カンボジアなどいくつかの国を巡った。
今まで見たことのない、そして経験のない国で、それぞれの日常に触れつつも貧しい人たちの働く姿をみて、あることに衝撃を覚えた。みんな笑顔で働いていたのだった。そこで、自分の贅沢さに気づかされる。何がしたいとか、何ができるとか。そんなことはもはや大した話じゃない。なんでもいいから必死でやればいいじゃんと気持ちになった。
帰国後、すぐに活動しようと思い立つ。身近に人脈の広いおじさん(父の友人)がいたことを思い出し「ちょっと自分も変わりたいので、おじさんが知る限りの一番厳しい職場を紹介してほしい」とお願いにいく。
そして、蒲郡市にある鳶職の会社を紹介され、面接にいくことに。この会社は、今振り返っても相当にやばかった。内容は省くが面接からして凍りつく経験でした。(詳細は省く)。
こうして25歳にして鳶職生活がはじまる。
そこには16歳の上司がいたり、朝が異常に早かったり、これまで知っていた世界にはない常識がそこにあり、過酷な日々の連続だった(ここには様々なドラマがありますが詳細は省きます)。
ある日、転機が訪れる。社長が珍しく全体ミーティングをやった時のことです。どうやら会社として、はじめて利益がでたらしいのですが、それはなんと近藤が毎日1日も遅刻せず出勤していたことが理由であると。これが本来の社会人の姿だと。まさかこういう形で評価されるとは夢にも思っていなかった。
その日から、周りの同僚たちの自分に対する接し方が変わった。どんどん優しくなっていき、蒲郡市(実は日本で一番鳶職の多いエリア)にある他の企業の人たちとも交流が広がり、着実に地位が上がっていった。
やがて1つの現場を任されるリーダーになり、仲間からも応援され、楽しい日々が続いていた。そんな鳶職の仕事をはじめて約2年くらい経ったある日、父親が倒れた。この出来事がきっかけで、やがて現在の不動産の仕事へと繋がっていくことになる。
父が倒れたことで、再び家業を継ぐ話になる。とても馴染んでいた鳶職を辞めるのは辛かったが、家業に戻ることになった。
しかしその頃、家業はもうボロボロだった。とても仕事ができる環境ではないほど、父親だけでなく母親も心身ともに疲れきっていた。にも関わらず、2億円ほどする土地を買って移転しようとしていた。それも近藤に仕事を引き継ぐために考えていたことだった。
そんなタイミングで、とある大手不動産会社のいかにもできそうな営業マンがふわりとやってきた。年齢も自分に近い感じ。そんな彼から「アパート経営やりませんか?」と話を持ちかけられる。しかし、利回りや入居率といった専門用語とその内容にまったくついていけない。これまで体を酷使して働いてきた自分に対し、頭をつかって仕事している彼に、何も意見をいうことができなかったのが、なにより悔しく思えた。
これがきっかけで《宅建》の勉強をしようと思い至る。ところが、いざ勉強しようとするものの問題集にでてくる漢字から読めない。まずは漢字辞典が必要だ。そんなレベルからのスタート。こうして夜間学校に通いながら約2年後、資格を取得する。
ある日、同じ夜間学校にいたであろう人に、コンビニでばったり再会する。「あれ、学校にいませんでした?」と話しかけると、近藤のことを向こうも覚えていて、その彼に「不動産の仕事をしてるんですか」と聞かれるものの、「いや、特にやっていないです。」と答えると「うちは不動産屋なんだけど、良かったら仕事を少しを手伝ってくれないか?」と持ちかけられる。
その時は、まだ家業をやっていたため、もしやるとなれば二足のわらじになることを伝えると、それでもいいよと言ってくれたので、一旦持ち帰って家族と相談する。父親も「それはいい話じゃないか」となり、流れ的に引き受けることになった。
こうして近藤にとっての不動産人生の扉が開かれることになった。これが現在に至るまでの入り口であったことなど、この時はまだ知る由もなかった。
こうして二足のわらじの生活が始まった。週の半分を家業、残りの半分を不動産業という生活に。もちろん同じ日に2つの仕事を抱える時もあった。トラックでスーツに着替えて、ある時は不動産屋になり、打ち合わせが終わればまた作業着に戻る。こんな日々を送りながら休みなく働いた。やがて不動産業の面白さに気づいていく自分がいた。
1年半ほど、こうした日々が続いたある日、不動産業の社長が病気で亡くなった。このことを受けて残ったメンバーで話し合い、新しくテナント専用の不動産屋を作ろうと話になる。様々な事情がありながらも周りからの支援を受けることができ、新しい不動産会社を設立するメンバーの一人となる。
これをきっかけに、家業をやめて不動産の仕事1本でやっていく決意をする。父親にもその旨を伝え、本格的な不動産の人生がはじまった。
最初は本当に大変だった。立ち上げ業務がありながらのノルマをこなす必要もあり、それこそ完全にオフなし、毎日0時すぎまで働く日々だった。あまりの多忙さについて行けずメンバーも次々と脱落していく。新しく人が入るものの、すぐに辞めてしまうというのを繰り返す環境が続いた。約5年くらいこうした生活が続いたが、やがて仕事の方向性が徐々に合わなくなっていくのを感じ始めていた。
そんなとある日。豊田市にある不動産会社と一緒に仕事する機会があった。その時、担当された部長さんとは飲みにいく関係にもなり、やがて「うちに来ないか?」と誘いを受けることになる。近藤としてもそろそろ仕事をステップアップしたいと思っていたことも重なり、上司に転職したいとつげる。もっと学びたいことがでてきたと、転職の相談をする。
こうして、近藤にとっては第3の不動産会社へ転職することになった。
ここはまさしく、これまでに経験のないほどのフリーダムな環境だった。自分の席にはパソコンがあり、あとは「自由にしていいよ」と言われるほどに。
これまでとのギャップに、逆にどうして良いのかわからず、上司に「どうしたらいいですか?」と聞くと「そしたら事務員さんと話したりしてて」と言われる。マジでか・・・。本当にやることを見つけられなかった。
ただ、そうはいってもお給料をいただく身。なにかをせねばと思い、主に法人担当だった上司に同伴をするようになる。上司の仕事ぶりを学ぼうと横についていると、上司はただお客さんと世間話に花を咲かせてるだけだった。もちろん、そこには営業としての意味がたくさん詰まっていたのは言うまでもないのですが、当時の自分は何も力を発揮できていないような気持ちになった。
とはいえ、とりあえず自分なりにできることを行動しようと思い、まずは物件の仕入れ(空き地や空き店舗などをみつけたりすること)にいこうと思い、外回りをはじめる。すると色々な人と出会い、新たな地で人脈が増えはじめた。
そんな慣れない中、手探りで自分なりの仕事をしていこうとしていたある日のこと。岡崎店をつくりたいという話が持ち上がる。しかも、これまで豊田市で展開していた一般的な不動産会社のイメージとは異なり、全く新しいイメージで、爽やかな住宅販売会社にしたいと専務が言う。それこそショールームをつくって、新婚さんをはじめとする家探しの人たちのお手伝いをするような場所。そんな岡崎店に、近藤も地元ということで配属されることとなった。
これまでは法人がお客様となる法人部だった(B to B)のに対し、今回は個人のお客様とやりとりする仕事(B to C)に変わったことで、本当に不動産は人の人生を動かすとても大きな責任と役割があると改めて実感できる体験を重ねた。その後、以前から決めていた35歳独立の時期を迎え1年遅れにはなったものの、36歳を起点に独立。
こうして2016年1月。株式会社BOSTON-BAG(ぼすとんばっぐ)を設立。すべてが自分次第の独立開業となるため、サラリーマン時代にはなかなかやりきれなかった納得いくまで自分らしさでお客様と接する不動産業を目指して、新たにスタート。
ところが新しい気持ちでスタートしたのものの、2017年、2018年、2019年と3年続きで身内の相続があり、その手続きで追われる日々が続いた。その作業の大変さを自分で経験したことで「相続」というものを身近に感じ、同じように悩んでいる人のお手伝いがしたいと思うようになる。こうして「不動産相続」も新たな柱となる現在のぼすとんばっぐに至ります。
2020年を境に世の中が大きく変わったように、近藤にとってもそれは訪れた。これまでは人と会うことで成り立っていた多くの当たり前の出来事が、突然できなくなったからです。逆にオンラインで多くのことが可能となったり、その場にいなくても進んでいく新しい世界が誕生してしまった。これはなにかしら自分もやりたいと思う衝動にかられるようになっていく。こうして2022年から構想がはじまり、ホームページの刷新とともに2023年よりオンラインで提供するサービスを立ち上げる。詳細はこちら。